スポンサーリンク


2011/11/10

北斎が描いたのは朝鮮通信使ではなく琉球使節

世界的に有名な浮世絵師、葛飾北斎が描いた「東海道五十三次」の中に外国人らしき人物が登場する画が二つある。

一つが「由井(第十七景)」。旅宿と思われる場所で、僧侶が墨をすり、外国人風の人物が「清見寺」と揮毫している光景だ。


北斎『東海道五十三次・由井』


もう一つは「原(第十五景)」で、雄大な富士を横手に眺めながら街道を行く外国人風の集団が描かれている。


北斎『東海道五十三次・原』

これら二つに描かれた外国人が朝鮮通信使であるとする記事やブログをいくつかネット上で見たことがあり、筆者も最近までそう思っていたのだが、どうやら間違いであることに気がついた。

北斎存命中に朝鮮通信使は二度行われたが、一度目は北斎がごく幼い頃であり、二度目は幕府の財政難もあって対馬までしか来ていない。だから北斎はその目で実際に通信使を見てはいないと思われる。

それに比べて琉球使節は北斎存命中に六回、北斎が誕生した1760年から「東海道五十三次」が製作された1804年までの間だけでも三回は日本を訪問している。

また浮世絵とはその時代を活写する風俗画だが、すでに前回の来貢から40年を経た1804年の時点では、朝鮮通信使など古臭い過去の出来事でしかなく、その年に製作された「東海道五十三次」の題材に選ばれるとは考え難い。

それに比べて琉球使節は前回の来訪から八年ばかり、次の江戸上りを二年後に控え、当時の人々にとっては胸躍るようなカレントトピックであったろう。

それら諸々を考慮すれば、北斎の「東海道五十三次」に描かれた外国人は、朝鮮通信使ではなく琉球使節であったと考えるのが合理的というものだ。


0 件のコメント: